九月住職法語

解脱の光輪きはもなし 光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ

七月中雨が降り続き、八月になった途端に夏の太陽が厳しく照り続け、“命の危険”を感じさせる暑さがお盆を過ぎてもおさまりません。新型コロナウイルスの影響でお盆の行事も大きく影響を受けましたが、勝林寺の盂蘭盆会全戦没者追悼法要は八月八日に予定どおり勤修致しました。この追悼法要の中で呼名させていただく戦没者の数は百四名。戦地で亡くなられた軍人の方もありますが、多くの方が満州の開拓団として家族みんなで大陸に向かわれ、終戦直後の混乱状態の中、遠い地の川で集団自決されるという悲惨な戦争犠牲者の方々です。そこで家族は途絶え、遺族もなく追悼法要にご案内を出すこともできない方も多くあります。戦後七十五年という年月は戦争の記憶を消し去っていきます。勝林寺のご門徒の中には昨年亡くなられた方を最後に、出征し、敵と戦った記憶のある人はなくなってしまいました。例年八月はテレビ番組でも、戦争の記録が多く流されますが、今年は、それ以上に新型コロナウイルスに関する報道が、連日次から次へと新しく流され続け、その流れはなぜか国家間・民族間の対立をより深めていく方向に流れているようです。なぜ人類滅亡の脅威であるウイルスを目の前にして人はなおも対立するのでしょう。一〇〇年前に流行したスペイン風邪のパンデミックから始まった世界大戦の過ちを人はまた繰り返すのでしょうか。ワクチン開発も競争し“誰よりも早くいい席でいい景色が見たかったんだ”とノーベル賞歌手のボブディランが歌った、いじましい人間の未熟な根性は100年たっても少しも成長できなかったようです。

仏教はみな解脱することを目指します。しかし人は自分が可愛く、自分を守り、壁を作ります。壁の中に多くを取り込み、壁の外を見て内にないものがあれば欲しがり、妬み、奪い、より壁を頑丈に守ります。親鸞聖人もそんな人間の本性、煩悩を嘆き、嘆いてもなお捨てきれないわが身を“煩悩具足の凡夫”として悲しまれました。人として自分の大切なものを保ち守ろうとする方向と、壁を乗り越えて新しく改革していこうとする方向の流れは、現実社会の中でも大きく揺れ動きながら世界を揺さぶっています。どちらにしても、今生の娑婆世界では右か左か、善か悪か、“有る”か“無い”かに縛られて、一向に脱することができず、ますます自らの殻に引きこもるばかりです。この呪縛を解き放つ唯一の手立てが念仏です。念仏によって阿弥陀様の光に触れ、往生する。そこではアメリカも中国も、BlackもYellowも、美も醜もなく、みな平等に存在する浄土の喜びがあります。

人はそのお浄土に対しても、有るのか無いのか言い争い、自己主張を重ねようとします。しかし、私の師である信楽峻麿は“浄土は象徴だ”と言い切られていました。そして亡くなられる数日前に“また浄土で会おう”と私の手を握って語られました。解脱の光明に照らされた、有無を離れた浄土の実感がそこにあったように思います。

(文責 住職)

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