ホーム » 住職法語 » 八月住職法語

八月住職法語

智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし  真実明に帰命せよ

近年いろいろなものの値段が上がって、日々の生活が大変になってきているようです。私はあまり家事を手伝わず、スーパーに買い物にも行かないので、直接感じることが少ないのですが、ガソリンの値上がりは身に沁みます。また、毎日仏様にお供えするお香も年々高くなっていて、この先に不安を感じます。お香のもとにもいろいろあるようですが、中でも沈香と呼ばれる天然の香木はベトナム周辺でとれる希少なもので、もうすでに掘りつくされてしまっているともいわれています。石油にしてもやはりいつまでも無限に湧いて出てくるものではないようで、限りある資源なのだということがだんだん社会認識されてきたようです。どのようなものでも、無くなりそうだとなれば人は余計に欲しくなり、量に限りが有るものほど値段が上がっていく。その逆に、限りなく存在するものには値がつかない。誰でもいくらでも手に入るものならば買う必要が無く、値段がつかないのでしょう。水や空気、太陽の光、無限の宇宙空間に値段はつきません。ところが最近、無限に限りなく当たり前にいつまでもあると思っていたものも、実は限りあるものなのだということが明らかになってきました。親鸞聖人の時代であれば、というか、つい最近まで私たち戦後世代も、何でもかんでもあの無限広大の海に流してしまえば汚れのない海の水と一味になって浄化されてしまう。いらなくなったものはどんどん燃やしてしまえば煙になって大空に消えてしまう。昭和生まれの男子はまだまだそんな親鸞様と同じような感覚を持っているようです。しかし、近年地球環境の破壊の問題に光が当てられ、命の危険を感じる暑さも、ゲリラ豪雨も、地球のあらゆる量に限りが有ることに気付かず欲望の赴くままに行動した人間の責任であることが明らかになってきました。

限りある資源、限りある地球、そして限りある命。かぎりのあるもの、有量のもの、量に限りがあるものを、限りのないものと見間違え、強引な科学の力で、取りつくし、食べつくし、使いつくし、短い間に壊しつくしていった戦後の消費社会の贅沢な生活のありかたは、否応なく終わっていくことになりそうです。

同じように六十才も過ぎると、わが命が限りある命としてその残りの量が少なくなってきていることを感じます。いつか死ぬ有量の命であることは前々から聞かされていましたが、お念仏の中でいよいよ強く智慧の光明に照らされ、阿弥陀様の願いにかなった人生を最期までしっかりと歩み続けたいと思うようになってきました。

ご門主が「親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要御満座の消息」の中で“「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願われた親鸞聖人のお言葉を深く心に刻み、これからもお念仏を喜び、阿弥陀如来の智慧と慈悲をあらゆる人々に伝えることで、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に向け、さらなる歩みを続けてまいりましょう。”と呼びかけられていることに、勝林寺住職として静かに応じていきたいと思っています。

(文責 住職)