五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
「重ね重ねお詫び申し上げます」。重ねるが二つ、重なっています。同じ言葉を繰り返すということは、その意味を強調しているわけです。言葉や行為が重なっている、つまり何回もやっている、何回も言っているということになります。阿弥陀様も重ね重ね誓われました。「名声が十方に聞えんことを」。ここで「名声」は(みょうしょう)と読みますが、一般的には(めいせい)。ワープロで、≪みょうしょう≫と入力しても、「名声」は出てきません。
私たちの社会で名声を得ることは、大きな物事を成し遂げて、世間に広く名が知られるようになること、大概は欲が絡んで、売れっ子になる、評判になる、功名を立てる、認知度を上げますます有名になる、話題をさらう、などと、あまり良い感じのしない言葉のように思えます。親鸞聖人も、教行証文類の信巻で「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」と嘆かれています。『名利(みょうり)』とは『名誉欲 』と『利益欲』。『名誉欲』とは、「ほめられたい」「認められたい」「大事にされたい」「人より勝りたい」「見下げられたくない」「嫌われたくない」という心。『利益欲』とは、「カネが欲しい」「モノが欲しい」という心です。カネがあれば何かあっても安心ですし、好きなものも買え、好きなことができますから、とにかく「カネがほしい」と、皆追い求めています。メダルを獲得したアスリートには、スポンサーがつき、収入は増えます。学問でも名声が高まれば、本も売れ、講演料、大学での地位など上がり、給与が上がります。このようにたいてい利益欲と名誉欲は比例して増減するものなので、まとめて『名利』といわれます。親鸞聖人は名利の心が大きな山のごとくあるご自身の心を知らされ、「名利に振り回され、迷い、苦しんでいる親鸞だ」「名利そして愛欲に迷い苦しんでいるのが私の実態だ」と、告白され「恥ずべし 傷むべし」と、懺悔されたのです。現代社会に生きる私たち、とくに戦後の経済優先の社会的価値観からは、この「恥ずべし 傷むべし」の感情が著しく抜け落ちてしまったようです。
話がかなり逸脱しましたが、もちろん阿弥陀様が重ねて誓われた“名声聞十方”はそんな「名利に振り回され、迷い、苦しんでいる」私たちを何とか、どうしても、絶対に、救わなければ自分は仏にはならないと重ねて誓われた言葉です。よく会議などの前に皆さんとお勤めさせていただく短いお経の『重誓偈(じゅうせいげ)』は『仏説無量寿経』の上巻にある讃歌で、はるか昔に仏となられた阿弥陀様は、すべての苦悩の人々を救うため法蔵菩薩として現れ、世にこえた四十八の願いをおこされ、そして、「心貧しく苦しみ悩む人々を迷いの海から救い出し、南無阿弥陀仏の名号に込められた心を伝えることができなければ、決して仏にならない」と、重ねて誓われています。ここのところを親鸞聖人はお正信偈の中に引かれているのです。
(文責 住職)