源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
親鸞聖人は九歳で出家され、比叡山に上って二十年間ほど修業されたそうです。しかし、ご自身の青春真っ只中を過ごした比叡山の修行の様子を、ご本人が書き残されたものはありません。
比叡山延暦寺は、山全体が修行の場の広大な寺院で、境内は大きく三つの地域に分かれています。有名なのは、総本堂の根本中道がある東塔(とうどう)、それと釈迦堂や常行堂・法華堂がある西塔(さいとう)。そして一番北に位置するのが源信僧都ゆかりの横川(よかわ)です。親鸞聖人のこの頃の事は何も語られておらずよく分かっていませんが、聖人の妻、恵信尼様のご消息(しょうそく。手紙のこと)には、「堂僧つとめておはしましける」と記されているので、西塔の常行三昧堂において、常行三昧をされていたと考えられています。
源信和尚は九百四十二年生まれ、一〇一七年没。親鸞聖人は一一七三年生まれですので、比叡山での修業時代、二百年ほどの時間差があったようです。時間の差はあったにしろ、これまでの海外の高僧様とは違い、同じ場所で生き、修行し、生活した、同じ空気を吸って生きた人からの学びは、経文などの言葉で学んだいわゆる教義での教えとはまた別の、実感的、霊感的な学びがあったのではないかと思われます。思想とは直接関係ないのかもしれませんが、自分の手本にする先師の人生、ファミリーヒストリーはその人から学ぶ者にとって、人生に深く影響してくるものです。
この源信和尚も幼くして(七歳の時)父を亡くされています。しかし、お母さんが仏教への信仰心の強いしっかりした女性だったようで、その影響により九才で出家されました。そして十五歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれ、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を喜び勇んで故郷で暮らす愛しい母に、褒めてもらおうと送ったのだそうです。ところが、お母様は源信を褒めるどころか、いさめる和歌を添えてその品物を送り返されました。その諫言(かんげん いさめることば)に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ばれました。その母の諫言の和歌とは「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」というものでした。その後も権少僧都という位についても、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか一年で権少僧都の位を辞退されたのだそうです。親鸞聖人も、群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、ただひたすら、一心に真実を求め歩まれた方でした。
そういえば、勝林寺の前住職も幼いころに父を亡くし、そのあと気丈に寺を守った母も亡くしたのだと、よく話をしていました。その話の中には、どこか源信僧都のファミリーヒストリー、親鸞聖人のファミリーヒストリーが、重なっていたように思います。
(文責 住職)