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八月住職法語

摂取心光常照護  已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧  常覆真実信心天

 私は三十五年前に大学を卒業してから、いったん京都市の知的障碍者施設に勤めました。ちょうどそのころ日本も、1981年の国際障碍者年のテーマ「完全参加と平等」が福祉現場の中で叫ばれ、ノーマライゼーションの理念が社会全体に広まっていった頃でした。最近はソーシャルといえばディスタンスに続いていますが、その当時知的障碍者の現場ではソーシャルといえばインクルージョンでした。“ソーシャル・インクルージョン”(社会的包摂)を推し進めていくことが、若い福祉ワーカーの熱い夢でした。生まれてからずっと高い塀の中に閉じ込められて生活してきた重度の知的障碍者を、街のミスタードーナッツに連れ出してお茶を飲んだり、市民プールに泳ぎに行って、水の中でウンチをして、プールの水全部の取り換えとなり市の幹部から怒鳴られたり、いろいろやりました。

その後私は老人福祉を中心に活動してきたのですが、その基本的な方向性は“ソーシャル・インクルージョン”を基にした「地域包括ケア」です。今では現場で直接仕事をすることは少なくなった中ですが、「地域包括支援センター」の運用に口をはさんだり、地域福祉計画の策定に携わったりしながら、今も“ソーシャル・インクルージョン”の方向性が少しでも推し進められていけるよう尽力しているつもりです。

元を返せば、福祉の世界に足を突っ込む前、お念仏の中で出会わせていただいた阿弥陀様の、お前を常に照らし、護り、摂取して、捨てることのない心のひかりに、いかにして自分は現代社会の中で応えていけばいいのか、考えさせられたのだと思います。“摂取不捨”の心は私の中で“包摂”につながり、“包括”に結ばれます。

ずいぶんと難しい専門用語を使ってしまったようですが、この三十年間でこれらの言葉もだいぶ広まり、知られてきたように思います。オリンピックの開幕式でも、内容の是非はともかくとして、“多様性”は大きなテーマとなっていました。しかし、そのような言葉の広がりと裏腹に、現実は分断、選別、格差がこれまた三十年前の比でなく深まっています。社会はあらゆる場面で非難と排除、疑惑と不信が渦巻き、貪り、怒り、憎しみの霧の中で先が見えず、緊張は限界の様相です。この二律背反する方向性(社会的包摂と社会的排除)の中で、今の人類は崖っぷちに立っています。先日の卓球混合ダブルス準々決勝戦でのドイツとの歴史的攻防と同じくらい、社会は“包摂”と“排除”でせめぎ合っているようです。

現実社会の中で阿弥陀様の願いを実践することが容易でないことは親鸞聖人から重々お聞かせいただいています。親鸞さまはご和讃の中で「小慈小悲もなき身にて  有情利益はおもふまじ  如来の願船いまさずは  苦海をいかでかわたるべき」と、現実社会での私たちの実践活動の限界を痛烈に嘆かれました。福祉活動からいきなり足を洗うこともできませんが、どうしようもなく嘆かわしいこの身とこの世の現実をいよいよ突きつけられる中で、益々ただお念仏に励んでいかなければならないと思う今日この頃です。 

        (文責 住職)