ホーム » 住職法語 » 六月住職法語

六月住職法語

弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

新型コロナウイルスの流行により、社会の動きが大きく変化しています。勝林寺でも行事がほぼ中止となり、予定していた会議や総会等も集まりはなくなり、このひと月間住職は寺の中にとどまっておりました。そして五月、風は爽やかで、山々の草木も萌え、食糧危機に備えて植えたジャガイモが順調に育ち、寺の境内は、草が伸び放題になることもなく、例年よりも比較的綺麗に手入れができているように思います。

人は原始より、自然のなすがままに翻弄され、自らの時間を持つことができず、あるいは権力に支配され束縛されて苦しみもがいてきました。私たちは、忙しくあくせくと働かなければならない人生を脱し、より多くの自分自身のための時間を獲得するために文明科学を発達させてきたのではないでしょうか。それなのに、今の社会では暇なことは悪いこととして見られています。暇になれば仕事を失い賃金を失い財産を失う危機感はあります。しかし、与えられた貴重な時間を自分のために使える時間として、退屈せず、他人に指示されることなく愛する人と過ごせることこそ、人類が目指してきた幸福なのではないでしょうか。今社会は変わらなければならないというのは、人類がずっと目指してきた幸福の原点を取り戻す社会への復帰です。せっかくできた時間の余裕を、スマホの呪縛にとらわれ、退屈しのぎのゲームに時間を浪費させる幼稚な人間性しか育ててこなかった社会から脱皮する機会です。時間をかけて山を歩き、本を読み、イヌと遊び、スマホの電源を切って心静かにお仏壇に向かい、お勤めをする。そして自然に出会い、イヌとあい、人と逢い、仏に値遇する絶好のチャンスです。

親鸞聖人はどんな状況をも乗り越えて、どれほど厳しい環境の中でも人生の中で真実の仏と出会えるお念仏の道を伝えた高僧の説を信ずる事が、お浄土に入る唯一の道であると、正信偈の最後をしめくくられています。ここで親鸞が「信ずる」といわれるのは「知る」ということです。高僧の教説はアマゾンで注文すれば「論註」でも「選択集」でも買って読めるかもしれませんし、グーグルで検索して知ることもできるでしょう。しかしそのような知り方では決して信心にはなりません。私たちが高僧の説を信ずるのは、念仏信心に目覚めた「人」に出会うことによってのみ、親鸞聖人と同じご信心が伝わってくるのです。

社会状況の激変の中で「リモートワーク」での会話が増えています。先般は「リモート飲み会」というものを体験しました。遠くは岩手、九州と離れていても、なかなか愉快においしくお酒をいただけました。人と人との出会いをラインでつなぐ技術は便利なものです。しかしこのラインは停電すれば閉ざされてしまいます。スマホがなければ暮らせない、ネットがなければつながれない人は不自由です。私たちは技術に使われる奴隷でなく、技術を道具として利用する主人でなければなりません。お念仏は停電しても、悪意に満ちたネット遮断が起こっても、自由に仏様の声を聞くことのできるオンラインです。 

           (文責 住職)