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十一月住職法語

三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

今月のお正信偈四句冒頭の一句目は、“道綽禅師はねんごろに三不三信をさとされた”ということのようです。普段お正信偈をあげていると、“サーンプ サンシン ケーオンゴン”と、“サンプサンシン”はまたゆっくり考えることにして、“ケー”と“オンゴン”は、私にはあまりに漢字が難しくて、今まで何の意味かも考えることなく、ただ、“ケーオンゴン”とうたっていました。いつも歌っている歌も、あらためて詩の文字を見てみると、意外な思い違いが発見されることがよくあります。《「アルプス一万尺」の(子ヤギのうえで・・)とか》それは別にして、“ケー”は今の日本語では“カイ”と発音し、教誨(キョウカイ)の「誨」で、「知らない者を教えさとす」ということだそうです。そして“オンゴン”は今の日本語では“インギン”と発音し、慇懃無礼(インギンブレイ)の「慇懃」で、「丁寧 真心がこもっていて、礼儀正しいこと。また、そのさま。ねんごろ。」ということだそうです。まだ何も知らない子供たちや、お仏壇に座ろうとしない若者たちや、仏に手を合わせようとしない大人たちに、丁寧に真心こめて道綽禅師は、阿弥陀様のまだ知らぬお念仏の心を教えてくださったのだ、と親鸞聖人はうたっておられるのです。

最近この「慇懃」ということが気になります。私自身戦後の高度成長期の中で自由奔放、無礼不躾、こざかしく育ってきたので偉そうなことも言えないのですが、今の社会の様々な問題、とりわけ家族崩壊のひどい状況を目の当たりにする中で、明治生まれの前々住職が、“お仏飯を粗末にしたらアカン・法事を横着したらアカン、もったいないやろ”と、大きな目で門徒さんをギョロリとにらんで、誨(さと)していたのが思い出されます。その時その声に、私も社会も謙虚に耳を傾けていれば、今のようなひどい社会状況にはならなかったように思うのですが、その当時私たちは、豊かさ、便利さ、気楽さに目がくらみ、明治生まれの時代遅れの言葉をバカにして聞き流してしまいました。ただ最近まで、ご門徒宅の報恩講に行くと、前々住職の言葉を聞いて育った戦前生まれのご婦人が「若さん、うちには若いもんがおるのに横着してすみません」と、私には十分丁寧なお飾りであっても、「横着してすみません、横着してすみません」と口癖ように言われていたものでした。しかし、もうすでに、横着、もったいない、お粗末、ありがたい、という明治生まれの前々住職が、嫌われながらにも伝えようとした思いが、言葉としても死滅してしまったように感じます。

コロナ禍の中で過ごした三年の中で、仕方ないとは言いながら、私たちの社会はさらに“横着”が進んだようです。お葬式、ご法事、報恩講は“慇懃”に努めなければなりません。とはいっても、なにも、人をたくさん呼んだり、贅沢な食事を出したり、豪華絢爛に催したり、BGMや慇懃無礼なアナウンスで飾り立てたりすることではありません。コロナによって私たちは、そんな商業主義的な豪華さ、贅沢さのむなしさに気づけたようにも思います。本当に亡き人のことを思い、心から今の命に感謝し、阿弥陀様に出会える喜びを横着しないで表現する、本当のお葬式、ご法事、報恩講をこれからの勝林寺では考えていきたいと思います。

(文責 住職)