天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還廻向由他力 正定之因唯信心
今年は、六月に猛暑日があったり、雨が降らないまま梅雨明け宣言が出たかと思えば、その後に梅雨空が続いたり、不安定な天候です。八月のお盆にはどんな天気になるのか心配です。
先日の勝林寺永代経では坊守が導師として登礼盤作法を行いました。浄土真宗は“お念仏一つ”の教えですので、「門徒もの知らず」などともいわれ、礼儀作法は気にしないほうなのですが、僧侶になるにはそれなりに厳しく決まった動き(作法)の教育がなされます。坊守も教育は受けましたが、これまで実践の場はなく、初めての経験でかなり緊張していました。
こうした予め決められた体の一定の動き(作法)には、それぞれにもともとの意味・理由があるのだそうです。意味あって動きの形となったものが、中身が忘れられ表の形だけが残って、訳も分からず行われている作法も多くあります。逆に、仏道には理由を問う前に、動きを徹底して身につけることで、自然と深い意味が分かってくるという考えもあるのです。この作法の中には“回す”所作が多くみられます。そんな文化の中で育った日本人は、何でもクルクル回したがるクセがあるようです。相手に物を渡すときも、お茶を飲むときも、物を仕舞う時も、とにかく回しておけば無作法ではないという安心感なのかもしれません。私は、その所作の基本には仏教の「廻向」(エコウ)ということが関係しているように思うのです。インターネットのウィキペディアで調べてみると、【廻向(回向、えこう、梵:Pariṇāmanā,パリナーマナー)とは「転回する」「変化する」「進む」などの意、その漢訳である「回向」は、「回」は回転(えてん)、「向」は趣向(しゅこう)の意であり、自分自身の積み重ねた善根・功徳を相手にふりむけて与えること。自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。寺院や僧侶に読経をたのむときに、「廻向料」などと表書きするのは、この理由による。上座部仏教においては、十福業事のひとつである。善行の報いは本来自分に還るはずだが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となる。】自分のものを他に回して与える、とても大切な気持ちです。独り占めせず、奪い合わず、分け合って生きる、これからの新しい社会の在り方の基本となるものではないでしょうか。私たち浄土真宗のお勤めでもお経の最後に必ず回向句が唱えられます。有名なのは善導大師の「願似此功德 平等施一切 同發菩提心 往生安樂國」という文句です。自分一人が極楽に往って幸せになるのでなく、みんなが平等に浄土で幸せになりたい。そんな思いを私たちは毎日毎回唱和しているのです。そして曇鸞大師は「往還廻向由他力」と言われています。往還廻向とは往相回向(念仏を唱えて浄土へ往生しようとの願い)と還相回向(極楽に生まれた人々が再びこの世で衆生を救おうと還り来ること)の二種の回向です。そしてその両方とも、私たちの自力の力ではなく、阿弥陀様の他力の力によるものであると、親鸞聖人は今月の正信偈の句の中で述べられているのです。
お盆はとかく作法が気になる季節です。うちのカールは犬ベッドに横になるとき、必ずクルクル三回まわってからコロンと横になります。この所作も何か彼女なりの作法なのでしょうか。
(文責 住職)