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住職法語 2024-07

能発一念喜愛心  不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉廻入  如衆水入海一味

先日、勝林寺ご門徒の中で最高齢だった藤川たかゑさんがお亡くなりになりました。大正十一年の生まれで、百二歳でした。自分も六十五歳を過ぎ、結構長く生きてきたようにも思うのですが、百二歳までにはまだまだ生きなければならないようです。

 何歳まで生きれば、もうこれで充分生きたと思えることはないように思います。藤川さんももうだいぶ前から“コボンちゃん、私もう十分生きたわ。はようお浄土行きたいわ”といいながら“やっぱりご飯が食べたいわ・・”と笑っておられました。食欲も、性欲も、物欲もいつまでたっても消えないようです。

 私たちの浄土真宗は今年立教開宗八百五十年です。それは開祖親鸞聖人が「顕浄土真実教行証文類」という大著を書かれたことによります。その信巻のところで親鸞聖人は自らの心境を“誠に知りぬ 悲しきかな 愚禿鸞 愛欲の広海に沈没し 名利の太山に迷惑して 定聚の数に入ることを喜ばず 真証の証に近づくことを快しまざることを 恥ずべし 傷むべし”と、悲嘆述懐されています。親鸞聖人の浄土真宗が他の宗教と大きく違うのは、自分自身の姿を深く偽らずまっすぐに見つめ、その姿を“恥ずべし 傷むべし”と、素直に悲嘆述懐するところから始まることにあります。そして、その身をそのまま救う弥陀の本願にであうことで、煩悩を断たずに涅槃を得ることができ、喜ぶ心を恵まれ、日々感謝の中でお念仏の日暮らしする仏道であることにあります。また、歎異抄の第十一条では歎異抄の著者である唯円が親鸞聖人に「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と質問をしています。それに対して「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。」と返され、「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。(中略)また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり(後略)」と、老後の私たちにぴったりの問答を残していただいております。

 こうしたお念仏のおみのりに出あい、藤川さんも念仏者として親鸞様の生きざまに学びながら、百二年の生涯を静かに閉じられていきました。最期はだんだん食が細くなり、亡くなる一週間前からは食事が入らなくなり、入院しようか、点滴入れようかとも思案しましたが、“えらいの痛いのはいややで・・”と常々言っていたので、医療処置は行わず、シカバレー内のグループホームアネシスで、ケアプラン通り静かに職員に看取っていただきました。手をあわせ、ありがとうと言っている声が聞こえます。

(文責 住職)