善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁 開入本願大智海
今年も勝林寺の報恩講を終え、今は毎日各門徒のお仏壇で報恩講を勤めさせていただいています。毎年こうして年末年始に全門徒宅にお参りしていると、ご法事でもないかぎり一年ぶりに家のお仏壇にお参りさせていただくことになるのですが、なんだかついこの前お参りしたような気がして、“一年が早いですね”と言ってしまいます。そうするとある方が、“ごインゲさん、一年が早いと感じるのは、この一年が平和で、穏やかに過ごせた人なのですって。悲しく、つらいことが多かった人たちには、一年が長いと感じられているのだそうですよ。”と、教えてくれました。なるほど、時間に絶対の基準はなく、長い短いなどは人それぞれ相対的なもので、いろんな感じ方があるのだと教えられました。 最近社会の中で、多様性を重んじることの大切さが浸透してきています。男性女性の問題、障碍者の問題、人種の問題はこれまで勝手に決めつけ相手の人間性を疎外してきた固定観念を破って、多様性を認める中で、社会をより豊かなものにしようとする流れが進んでいます。振り返れば、親鸞聖人は八〇〇年も前に、山に登って勉強したり修行したりできる一部の人たちだけが救われる、凝り固まった頭の仏教を破り捨て、すべての命が等しく尊く、皆仏となる、お釈迦様が本当に説きたかった真実の教えを私たちに示していただきました。ただ、その浄土真宗も親鸞聖人の没後、世間の手あかにまみれ、利権を主張し、ドグマに陥って欲におぼれる中、差別を助長し、戦いをあおり、人生を諦めさせる世俗集団の傾向が強くなっていきました。こうした傾向を戦後大いに反省し、西本願寺では「基幹運動」を進め、さらに進んで「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)として推進されるようになっています。この運動は、あらゆる人々に仏の智慧と慈悲を伝え、「自他共に心豊かに生きることのできる社会」の実現を目指すもので、その成果として、多様性の認められる社会が少し進んできたのかもしれません。
多様性を認めることは、他の価値観を受け入れ、ものごとを決めつけず、柔軟に人生を歩むことです。親鸞聖人は『歎異抄』の一節に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と述べられたのだそうです。世間のことはどんなことも“絶対“なことはない。“ただ念仏(仏法)のみがまことなのだ”と言われています。ここがやはり宗教であり、他によりどころを持つ人には理解できない体験なのでしょう。“善導独明仏正意”という言葉も、かなり独善的に響くかもしれません。“善導大師だけがただ一人、数ある高僧の中でもお釈迦様の本当の心を伝えている”と言われているのですから、他の高僧様は仏教の本意をわかっていないことになります。しかし、この世俗の理屈を超えた信念があるからこそ、世間の多様性が受け入れられるのです。まあ、これこそが真実の宗教の特徴なのだと思います。
(文責 住職)
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