極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
お仏壇の前で毎日お正信偈を読みなれていると、「極重悪人」という言葉も違和感なく、するりと読み過ごしてしまいます。しかし、一般社会の中で「極重悪人」と聞くと、随分と極悪非道な犯罪者として特別な人がイメージされます。
私たちは社会生活の中で、「善」と「悪」を判断し、できる限り「善」を増やし、「悪」減らしていこうと努力します。しかし、それぞれの人によって、立場によって、もっと言えば存在の個別のありようによって、「善」と「悪」の判断は必ずどこかでズレができ、紛争が生じます。国家間での紛争は戦争になり、利害が対立する企業間での競争はつぶし合いになり、夫婦間での紛争は離婚騒動になり、意見の違いが学問紛争と、社会の中で言い争いがつきません。それらもこれらもみんなこちらの「善」の主張と、あちらの「悪」の指摘の攻防です。日常生活の中での言い争いがこじれると裁判紛争になることもあります。裁判ではお互いが自分の側の「善」を主張し、相手方の「悪」を指摘し、時によってはその弁論技術にたけた弁護士を立てて、激しく主張し合います。悪を指摘する検事は犯罪者の出口を緻密につぶしていきます。逆に弁護士はどんな罪を犯したものであれ、「一寸の虫にも五分の魂」、見る角度によっての良いところを見つけ出し、巧みに抜け道を見つけ出します。お互いの主張を聞いて裁判官が判断するのですが、100%どちらかが悪であるということはないように思われます。しかし、日本でまだ「極刑」としての死刑があるということは、人間が出口の一つもない100%の「悪」の判断をしているということなのでしょうか。とにかく「極重悪人」とは、弁解のしようのない、言い訳の余地のない、出口のない牢獄に閉じ込められた、そして死をもって償う以外に方法のない罪人のことなのです。
私たちは毎日お仏壇の前でお正信偈をあげ、「極重悪人唯称仏」とすんなりうたい進んでいきます。しかし親鸞聖人は“我がこと”として「極重悪人」をとらえよと教えられています。いくら弁護士さんに頼んでも一つも弁解の余地のない、牢獄を抜け出す一ミリの隙間もない、極刑を免れる手段のない「悪」の自分であることの自覚です。だからこそ、ただただ、仏の名を称す。ただお念仏させていただくのです。
社会の中での倫理道徳的善悪と、宗教的善悪は比較できないかもしれません。仏法の判断と世法の判決は次元が違うかもしれません。しかし私たちの命は究極的に、いくら自らの「善」をかたくなに主張し、相手の「悪」を意地悪く必死に非難して言い争っても、老いそして病みそして死んでいく、出口のない極刑を宣告された「極重悪人」なのです。
いま世界は新型コロナウイルスという未知の危機にさらされています。日々状況が変化し、情報が錯綜しています。人類として最善の努力と知恵を絞って対応していかなければなりません。と同時に、今だからこそ、ただ念仏一つと心を決め、仏の道をみんなで共に歩んでいきましょう。
(文責 住職)