花のある暮らしは心豊かな気持ちになれて素敵です。先日の報恩講の時も本堂の前に満開の菊をたくさん飾らせていただき、お参りの方々にとても喜んでいただきました。勿論、私が育てたのではなく、ご門徒の方が育てて持ってきてくださったものです。私の誕生日には、アメリカに住む姪の娘が帰国していて、ベゴニアの花の鉢植えをプレゼントしてくれました。夏には、住職の従弟から夜顔の苗、ご門徒さんから朝顔の苗をいただきました。どれもとてもうれしくてワクワクするのですが、同時に「私にちゃんと育てられるかな」「枯らしてしまわないかな」とドキドキするのも事実です。幸い、ベゴニアの花は咲き終わりましたが茎は元気ですし、夜顔も朝顔もきれいな花を次々につけて、暑さに耐えるばかりの夏に花を見る喜びをもたらしてくれました。(よかった)生き物というくくりで言えば、動物も植物も同じですが、私は動物の世話は不安なくできるのに、植物になると不安の方が先に立ってしまいます。それは、世話を忘れていても動物は声に出して要求するので「ごめんごめん」と補うことができますが、植物は水が足りなくても栄養が足りなくても黙っているので、気が付くころには瀕死の状態になっている―と、うまく世話できないのは、相手が伝えることができるかできないかの違いだと思っていました。でも、それは違いますよね。植物を育てている人には、ちゃんと植物の声が聞こえているから、必要な水や栄養を与えることができて美しい花を咲かせられるのでしょう。私自身が、きちんと向き合って耳を傾ければ、聞こえるはずの声にならない声というものが確かにあるのだと感じます。きっと私に向けられた仏さまの呼び声もそうなのだと思います。 (文責 坊守)
(文責 坊守)