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住職法語 2024-06

如来所以興出世  唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海  応信如来如実言

 私が継職した時に総代を務めていただいていた亀井幸男さんの十三回忌法要を先日勤めさせていただきました。総代を退任されてから四半世紀も過ぎますが、お元気なうちは常々お寺に通い、お念仏相続されていました。そんなある日、汚れた作業服姿で大きなバケツを下げて山門から入ってこられ、“田んぼの土を取ってきた”とのことで、バケツの中にはドロドロの土が入っておりました。どうされるのかと聞くと、境内藤棚の下にある手水鉢(チョウズバチ)の中に入れるのだそう。もう一つ小さなごみ袋に入れてあったスイレンの苗をその手水鉢の中に入れた泥の中に植えられました。それから毎年初夏に一輪か二輪、清らかな華を咲かせていますが、今年は孫やひ孫を迎えるようにご法事の日に咲いてくれました。

 前にも書いた気がしますが、スイレン(ハス)の花は仏様の花です。見た目の美しさもさることながら、その花がドロドロの汚い泥の中に根を持ち、濁った土の中で育って初めて花を咲かすことに仏様の花としての意味があります。そこには仏の悟り・仏の智慧と慈悲の最も本質的な性格が象徴されているのだと思います。

 親鸞聖人は九歳で出家され、比叡山に登って厳しい修行と勉学を積み重ねられました。しかし、いつまで山の上で仏道を求めても、お釈迦様が得られた真実の命の花を咲かすことはできないと、二十年の努力を棒に振って山を降りられたのです。山を降りたといっても、そこは私たちの暮らす、普通の生活です。この日常の私たちの生活が「五濁悪時群生海」であり、親鸞聖人はその泥沼の中に身を移されたのです。

 「五濁(ごじょく)」とは「劫濁」「見濁」「煩悩濁」「衆生濁」「命濁」の五つです。「劫濁(こうじょく)」とは、時代の汚れ、飢饉や疫病、戦争など社会悪が増大することです。「見濁(けんじょく)」とは自己の悪をすべて善として、他人の正しさをみな誤りとする邪悪で汚れた考え方や思想になる状態です。「煩悩濁(ぼんのうじょく)」とは、欲望や憎しみなど煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。「衆生濁(しゅじょうじょく)」とは人びとのあり方そのものが汚れることで、心身ともに人びとの資質が衰えた状態になることです。「命濁(みょうじょく)」とは、自他の生命が軽んじられる状態です。

 阿弥陀経に出てくるこの五濁悪世悪世界に生きる私たちの生活は、汚く、醜く、ジメジメ湿って悪臭を放つ泥沼のようだとたとえられます。誰もそんな泥沼の中に暮らしたくはない。涼しくそよ風の吹く爽やかな高原のうえで、仏道をはげみたいと思うのですが、そこには真実の蓮華の花は咲きません。親鸞聖人も二十九歳の時、五濁悪時の群生海(私たちの生活)の中に共に身を置き、お念仏生活の中で仏の華を開かせたのです。

 鎌倉時代も現代も、私たちの世界は変わらず五濁悪世です。ただ現代はその豊かさと便利さのなかで、自らをまた高い場所に置き、快適な環境の中で人を見下し、泥をかぶらず生きようとする念仏者も増えています。後の者がお念仏に生きる者の姿を教えるために、手水鉢の中のスイレンは、亀井総代の願いが花となって今年も可憐に咲き開いたのだと感じます。

(文責 住職)