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住職法語 2024-09

譬如日光覆雲霧  雲霧之下明無闇
獲信見敬大慶喜  即横超截五悪趣

イングリッシュ・セッターのカールも六歳を過ぎ、ずいぶん落ち着いたお姉さんになってきたように思います。この犬種は名前にあるようにもともとはイギリスの涼しい地方の産まれということで、暑さには強くないようです。朝5時から散歩に出かけ、帰ってからも裏庭でカナヘビを追いかけまわして遊んでいるのですが、今年の夏は、太陽が昇り気温が上がると、人より先にクーラーの動き出した部屋に入って寝転がるようになりました。犬でさえこうなのだから、人間も夏休みを喜べない雰囲気になっているように感じます。自分が子供だった頃、自分の子供たちがまだ小さかった頃は、夏が近づくと、勉強せずに遊べる、海に行ける、スイカが食べられる、虫が取れる、いろいろ喜ばしいことが頭に浮かんでワクワクしていたものですが。

今の子供たちにも、楽しい夏の思い出を提供したいと考えて、勝林寺では恒例の子供会を行い、地域ではコミュニティー主催の地蔵盆のスタンプラリーに参加しました。どちらも短い時間ではありましたが、予想以上に集まった子供たちが喜んでくれて、企画準備した坊守も婦人会の皆さんも、地域の大人たちも大喜びでした。

人は物を感じ取るのに目・鼻・口・耳・皮膚の五つの器官を持っています。目で見る。鼻で嗅ぐ。口で味わう。耳で聞く。皮膚で感じる。それ以外に、それらを超えた感覚のことを第六感とも呼びます。それらの感覚器を通して私たちは自分以外のものを感じ取り、良いもの悪いものを判断したり、気持ちよかったり不快だったり、好きだったり嫌いだったり、喜んだり嘆いたりします。子供たちは本堂の中の阿弥陀様を目で見、お焼香の練習でかぐわしい仏様の香りをかぎ、口でお念仏を称え、耳でナムアミダブツの呼び声を聞き、暑かったけど、肌で仏様の子供としてみんなに囲まれていることを触れ合って五感全部を通じて喜びを感じた夏の夕べでした。近年特に素直に喜ぶことが私自身少なく、観たまま、聞いたまま、感じたままを邪念なく喜べる子供たちの純粋な心に私の方が救われた、仏様のご縁の集いでした。

獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣(信を獲て 見て敬い 大いに慶喜すれば 即ち横ざまに 五悪趣を 超截する)今月のお正信偈の文句です。見て敬うとは、仏様に対する崇敬の心です。本堂の仏像を、木像に金箔を押したただのガラクタと見るか、文化財として眺めるか。子供会の初めに、「このお内陣に勝手に上がってはいけません」と子供たちは坊守から説明を受けました。仏具が傷つかない為でもありますが、仏様を敬い尊べば、大切に扱わなければならないと子供たちは素直に学んでくれました。広い外陣で紙ヒコーキをみんなで飛ばして遊んでいるときにも、優しく私たちを見守る阿弥陀様を見て敬い、家で一人スマホを眺めている時の喜びではない、みんな一緒に楽しめる大きな喜びの体験ができたのではないでしょうか。仏様にであい、喜ぶ心にであい、その喜びの輪の中にあることを喜べる瞬間は尊く、信心の世界に生きる者は、いかなる人も、皆一つの生命に連なっていることを実感できた勝林寺子供会でした。 

(文責 住職)