憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
立春を過ぎてから冬将軍が遅れて攻めてきたようで、結構な雪が降り積もりました。しかし季節は春、太陽の位置は高く、日が照ると勢いよく雪が解けて、いよいよ恵みの春が来たようです。
毎年この時期には「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」のご和讃のことを想います。「罪や障(さわ)りは、そのまま功徳のもとになる。その関係は氷と水のようであり、氷が多ければ多いほど、溶けたときの水は多くなる。同じように罪や障りが多ければ多いほど、後に得られる功徳も多いのである」。本当にこの陽ざしの心地よさ、暖かさ、春の恵の尊さは、年中晴れている山陽でボーッと生きている人にはわからない、雪に閉ざされ寒さに震えて暮らす私たちにしか味わえない、ありがたい体験だと思います。
二月から三月に法事があると、大体このような話をお勤めの後のご法話でしているように思います。最近この前にどんなお話しをしたのか、すっかり忘れてしまっているので、初七日、四十九日、一周忌、三回忌と、同じ話を繰り返しているのではないか心配になります。やはり高齢者になると記憶力は確実に落ちていくようです。
二〇二五年高齢者が激増する中、「新しい認知症観」(誰もが認知症になり得ることを前提に、認知症になった人も「個人としてできること・やりたいことがあり、住み慣れた地域で仲間と共に、希望を持って自分らしく暮らすことができる」という考え方)の普及が叫ばれています。本当に我が事として体力もさることながら、記憶力、判断力、理解力という認知機能が徐々に低下していく中、今のうちにできることはやっておかないといけないと日々思っています。
ただ、「記憶」ということについて、今は昔とずいぶん変わってきたように感じます。昔は見たこと、聞いたこと、話したこと、考えたことなど、時がたてば忘れてなくなっていったものですが、写真ができ、録音機ができ、ワープロができ、観てきたものが限りなく写され、話されたものが収録され、考えたものが電子媒体になって蓄積されるようになりました。私も一九九二年以降に考えたことの全てがパソコンのデータに蓄積されています。社会的にも昔であれば一〇〇年前の出来事は誰も見たことのない夢の出来事だったものが、今は映像が残り、色までついて再現されています。だから私は正確な記録は機械に任せ、自分自身は時間と空間があいまいな、緩んだ「記憶」を大切にしていかなければならないと思っています。そうした本当の「記憶」はパソコンの中にも、脳の中にあるものでなく、それはお念仏の中にこそあるものなのです。
阿弥陀様の本願を憶えて(記憶して)念ずることで、パソコンのデータが消えても、認知症になって脳が破壊されても、霊性に満ち満ちた記憶の中で、自分らしく希望をもって暮らすことのできる、確かな記憶に支えられた新しい生き方にであえるのです。
(文責 住職)