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住職法語 2026-03

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

一昨年から縁あって教誨師(きょうかいし)の活動をお手伝いさせていただいています。教誨師というのは罪を犯し、刑務所・拘置所・少年院などの矯正施設に収容されている人に対し、精神的・倫理的・宗教的な支援を行う宗教者のことです。仏教僧侶、神職、牧師、神父など、各宗教団体に所属する民間の宗教家が委嘱を受けて活動しています。なって早々の昨年六月に刑法が改正され、懲役・禁錮が廃止され、新たに拘禁刑(こうきんけい)が創設されました。具体的には、従来の「懲役(作業義務あり)」と「禁錮(作業義務なし)」を一本化し、拘禁刑に統合されました。受刑者の特性に合わせた改善更生のために必要な作業や指導を行うことが明記され、教育・指導の時間を確保できるようになりました。まだ十分理解できていない点も多いのですが、一一八年ぶりの大改正であり、日本社会の罪に対しての向き合い方が大幅に変わったように感じています。

極重悪人であってもただ仏の名を称すれば、弥陀の大悲の誓願によって救われるのが真宗念仏の教えです。だからこそ、明治期に宗教教誨が制度化される際、浄土真宗の僧侶たちが積極的に監獄での教誨を願い出ました。そして現在も全国約一八〇〇名の教誨師を束ねる公益財団法人 全国教誨師連盟の総裁は、歴代すべて浄土真宗本願寺派のご門主が務められています。

刑務所の中にはいろいろな罪状で留置されている人たちがいます。極重悪人とまで表現される人とは、まだ出会ったことはありませんが、親鸞聖人は「自分もまたその中の一人なのだ」と言われているのだと思います。『唯信鈔文意』には「りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」と、“われらなり”と自分を含めて受け止めておられます。どのような境遇の中で生きた罪びとであっても、重い罪、軽い罪、極悪非道の罪―さまざまな罪を抱えながら、みな同じ人間であり、そして自分もまたその一人なのです。仏さまの眼から見れば、みな極重悪人であり、私自身もまた弥陀の本願力によらなければ、決して救われることのない極重悪人の一人なのだ。というのが、親鸞聖人の念仏往生の道に示された人間観なのだと思います。

私が長年かかわってきた福祉分野では、近年「わがこと・まるごと」が地域共生社会の中核概念として定着しています。「支援する側/される側」という線引きを超えて、地域の誰もが“自分ごと”として関わり、生活課題を“まるごと”受けとめて解決していこうという理念です。この福祉で培った基本姿勢が、今度は受刑者の問題を「他人事」にしないまなざしへとつながります。相手の苦悩を理解するために、まず自分の“まるごと”を見つめる「救われるのはあの人ではなく、この私」という姿勢が、相手へのまなざしを変えるという教誨の姿勢につながっていけばと思っています。

お念仏に出会い生きてきた最後のステージで、この役割に出会えたことを本当にありがたく感じています。 

(文責 住職)