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二月住職法語

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源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立

お正月から穏やかな日が続き、今年は温暖化の影響で暖冬なのかなと思っていたら、月末に厳しい寒波と雪に見舞われました。今年も例年通りに榎見・坪口・出石町内と報恩講のお参りをさせていただきながら、勝林寺の一年を変わりなく滑り出していくはずが、コロナの影響で延期させていただくこととなりました。年々穏やかに、変わりなく、同じように過ごしていきたいと思う気持ちが強くなる半面、景気も政治も自然も、激変・急変・動乱して落ち着くことがありません。

変わったことがなく穏やかに落ち着いて暮らしたいと望むのは、年を取ったせいなのでしょうか。本当の人生を歩もうとすれば、古い習慣に疑問を持ち、発想を柔軟に転換し、既存の価値観を捨てて、常識にとらわれないで、自由にのびのびと思考して生きなければなりません。しかし、近年社会全体が戦闘的に古い価値観を壊し、新しい価値を創造しようとする傾向は、個人の欲望を満たすために他の者を蹴落とし、自分だけ上手く勝ち残ろうとする競争原理を基に、ますます邪悪化しているようです。

私たちが目指す浄土は「極楽浄土」「安楽浄土」「安養浄土」などと称されます。“極めて楽な清らかな土地”“安らかで楽しい清らかな土地”“安全安心で人々が養われる清らかな土地”。源信僧都は一切の人々が偏(ひとえ)にこの“安養の浄土”に帰っていくことを勧め(すすめ)られたのです。それでも、今も昔も、源信様(942―1017年)が生きた平安時代であっても人々は、仏の教えに耳をかそうとせず、欲におぼれて浄土に帰る道を歩もうとしなかったようです。だから、源信様は『往生要集』という本の中で詳しく「地獄」の世界を描き出し、そんなふうに自分勝手に生きているともっと苦しく、恐ろしい「地獄」の世界に堕ちてしまうことを示し、“安養の浄土”をみんなが目指すよう勧められたのです。

歎異抄の第九条に親鸞聖人は「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだむまれざる安養浄土はこひしからずさふらふ・・」と言われたそうで、現代に至ってもなお、人の性分は変わることなく、地球全体が偏に「地獄」に進んでいるようです。我の欲を、他から奪い取って満たす行為は、必ず自らの深い渇望になって帰ってくる。仏教の教えの根本です。世界で最も貧しい大統領として知られるムヒカ氏が2012年の国連環境会議での演説の中で「ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てば、この惑星はどうなるのでしょうか。息をするための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を、世界の七十億~八十億人の人達ができるほどの原料が、この地球にあるのでしょうか?」。と厳しい疑問を投げかけられています。私たちは今真剣に、安養を目指すことの大切さをお念仏の中で心静かに気づかなければなりません。 

(文責 住職)