極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
新型コロナ流行から三年、ウクライナ戦争から一年がたち、暗いニュース報道に飽き飽きしています。何かもっと楽しいものが流行らないかなと思うのですが、最近の若者の流行歌にはついていけません。
昨年永代経の法座で、長専寺様が鴨長明『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」を解説しながら、仏教の根本思想である無常観とお念仏に生きる私たちのよろこびをやさしく説いてくださいました。本当に社会も政治も、身体も心も、愛も憎しみも、川の流れのように、川のよどみに浮かぶ水の泡のように、プクプク沸いては消え、消えては膨らみ、長くとどまることはないようです。年を取ればとるほど余計に飽きやすくなることを倦怠期いうのだそうです。運動を心掛けたり、食事を工夫したり、ドリンク剤を飲んだりして今ある姿にしがみつこうとしても、やはり川の流れを止めることはできないものです。
お正信偈の「大悲無倦常照我」の一句は、いろいろなお家にお参りさせていただいて、床の間やお仏壇の上にかかっている軸に一番よく書かれている文句のように思います。念仏者が人生の中で味わう最大のよろこびの言葉だからでしょう。
「大悲」とは、大きな慈悲の心。「大」と「小」の違いは、包容力、幅の広さの違いでしょうか。いい子は助けるけど悪い子はほっておくというのが小さいのだと思います。大悲心は阿弥陀様の特別の心です。良いとか悪いとか、綺麗だとか汚いだとか、上だとか下だとか、あらゆる差別をなくして、すべてのものを救おうとする大きな心が阿弥陀様にはある。逆に言えば、そういう他には持てない大きな慈悲の心を持つ仏様が阿弥陀様なのです。一切の衆生を救わなければ自分は仏にならないと誓いをたて、仏になったのが阿弥陀様なのです。一切の衆生を救う願いが大悲、自分の眼鏡にかなったものを救うのが小悲です。私たちも仏様の子として少しは優しくなりたいのですが、親鸞聖人は和讃で「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ」と嘆かれています。災害ボランティア、福祉活動、ウクライナ支援といろいろ行う中で、常に我が身を振り返り、人の行為の器の小ささに気付かなければなりません。さらに阿弥陀様のすごいのは、「無倦常照我」(あくことなく常に我を照らす)というところです。ずっと倦怠期にならない。私が善でも悪でも、よくても悪くても、上でも下でも、強くても弱くても、若くても年老いても、どんな時でも常に飽くことなく照らし続け、大悲心を向けているのが弥陀の本願です。そのことに気づき、喜ぶ心を身に得るのが念仏者の信心。だからいろんな人が掛け軸に「大悲無倦常照我」と書いて床の間に飾ってきているのだと思います。
(文責 住職)