ホーム » 住職法語 » 住職法語 2024-05

住職法語 2024-05

本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

車を運転していて、助手席からいきなり“そこの信号左”と言われても、とっさにはどちらが右で、どちらが左なのかが判断できません。手のひらを一度胸に当て、心臓のある方を押さえ、こちら側が左なのだと確認しないと左の方向が認識できないのです。これは何も老化のせいではなく、小さい頃からそうなので、脳の個性なのだと思います。他にも自分の脳が、一般的な普通の脳と少しばかり違っていることを時々感じています。大学の入試制度の仕組みが一向に理解できない。国の選挙制度の仕組みの議論も全く理解できない。関心のないことでもあるし、苦手なことについては諦めて、あまりこだわらないようにしています。

その選挙の時にこれまたいつも不思議に思うのは、脳の特性の問題とは質が違うのですが、“当確”の報道がとても早くに出てくることです。ひどいときには開票開始早々、開票率1%で“当確”とのニュースが流れます。そしてそれがほぼほぼ間違いなく、外れることがありません。

毎月寺報にはお正信偈の始めから四句ずつを頭にして、住職のお味わいを述べさせていただいています。今回もかなり強引な導入からなのですが、普段お正信偈を唱和していると、“当確”と“等覚”がだぶって、おもしろいなと感じているのです。

今年は浄土真宗立教開宗は八百年の年です。すなわち、親鸞聖人がその主著「顕浄土真実教行証文類」(教行証文類)を執筆されて八百年になるのだそうです。その中に出てくる『正信偈』はとてもエッセンシャルに親鸞聖人のお念仏の思想を私たちに伝えていただいているものだと思っています。教行証文類をしっかりと読み込んで、親鸞聖人の浄土真宗を深く理解することも大事だと思いますが、毎日正信偈をご唱和することで、生活の中に親鸞聖人の浄土真宗のおみのりを身につけさせていただくことが、私の暮らしの中では向いているのだと思います。そして、その短い一句一句、一語一語が“いま・ここ”にいる、自分にとってどういう意味を持っているのかを考えることで、鎌倉時代の親鸞聖人の生きざまが、今の私の中によみがえってくるのです。

ということで、お念仏を称えれば“成等覚証大涅槃”〈等覚(当確でなく)と成り、大涅槃を証す〉“必至滅度願成就”〈必ず滅度に至って願いが成就する〉というのが今月の正信偈です。“等覚”というのは、“等正覚”のことです。“正覚”はすなわち仏様の悟りですから、“仏様と等しい身となる”ことを意味します。お念仏を称え、お念仏をいただいたものは、今ここで、仏様と〈等しい〉身となっているのだということです。ただ、この“等しい”ということについてはいろいろ考えさせられます。逆を言えば、この身が五濁悪世悪世界に生きる煩悩具足の凡夫として、今生にあるうちは、まだ仏様ではないということです。当確も当選は確実になっているけれども、議員さんではないのです。

しかし、短い人生の中でなにより私たちは、今生の命が尽きるまでに、早く等覚と成ることが大切です。頑張れば1%の開票率でも当確は出るのです。

(文責 住職)