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十一月 住職法語

三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

 今年は四月以降お亡くなりになる門徒さんが少なく、四か月間お葬式をせずに過ごしました。しかし、九月に入ってから急に五人の方が亡くなられ、どの方とも長らく一緒にお念仏を頂いてきた方々なので、寂しく、心細い気持ちが募っています。時の流れとともに歴史の記憶も遠ざかっていきます。九十七歳の方は前の戦争の時に戦地に出られた方でした。おそらく勝林寺のご門徒の中に出征経験のある方はこれでいらっしゃらなくなったのだと思います。ここ数年で、日本の中には出征経験者が誰もいなくなるのでしょう。大きな時代の変化を感じます。すべてのものが時とともに変化していくことはこの世の常で、国も社会もお金も人も、みんな変わっていってしまいます。お釈迦様の教えすらも時とともに変容し、すたれていってしまうと教えられました。そんなうつろな世界の中で、たしかな真実に出会えることができるのが浄土の教え、称名念仏の道です。

 道綽禅師は日課として七万遍の念仏を称えられたのだそうです。一時間に三千回、一分間に五十回、多少は寝ることも考えれば、毎秒念仏されていたことになります。それも、しっかりと数をこなすために、小豆や麻の種を袋に入れて、それを数えながら念仏したのだそうです。二つの袋をもって、一つの袋に小豆や麻の種を入れておいて、念仏しながらもう一つの空の袋に入れていくのです。百粒入れておいて、袋が空になれば百遍、反対に返していけば二百遍ということで人々に数の念仏を勧めたのだそうです。勝林寺では、除夜の鐘を百八つ撞くときに黒豆や銀杏を使っていました。ただ、その念仏にはやはり「心」が大切であることを説いています。前の曇鸞様が明かされた三つの心、淳心・一心・相続心の三心をもって念仏に励むことが大切であるとされています。この心の反対が「三不信」で、「不淳の信心」「不一の信心」「不相続の信心」とされました。「不淳」は、信心が純粋でなく、あるようにも見えるけれども、実はないに等しい信心です。だからその信心は「不一」なのです。自力のはからいが入り混じっていて、徹底していない信心です。したがって、そのような信心は、「不相続」なのです。徹底していないから、信心が持続しないのです。このような「三不信」でない「三信」が、天親菩薩の「一心」であると、曇鸞大師は教えられたのです。曇鸞大師が述べられた「三不信」の反対側、つまり「三信」について、道綽禅師が『安楽集』のなかで、自力の信心が「三不信」であるのに対して、他力の信心は、純粋で混じりものがなく(淳心)、ふたごころがなくて散乱することもなく(一心)、一貫して持続する(相続心)と教えられています。

 時代は変わり、ますます先の見えない末法濁世、混迷の世の中となってきましたが、そうであればこそ、一生涯悪を造りにつくって生きた人生の中で、ただ称名念仏し、仏の願いに出遇い、安養の浄土に生まれさせていただき、仏の悟りを開かせていただくお念仏の道を道綽禅師は教えてくださったのです。(文責 住職)