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九月 住職法語

惑染凡夫信心発     証知生死即涅槃
必至無量光明土     諸有衆生皆普化

 夏の暑さも峠を越え、朝晩少し肌寒さを感じるようになってきました。年々暑さの厳しさが増し、地球温暖化がますます深刻化しているようです。夏の盛りに坊守と一緒に神戸に出ることがありました。新神戸トンネルを出たところで、車の中でも会話がしづらいような蝉の鳴声に驚きました。勝林寺の境内の蝉は私が阿弥陀経をあげると一緒にノドカに唱和してくれるのですが、どうも都会の蝉はその勢いが違うようでした。聞くところによると、“クマゼミ”という南方から来た蝉のようで、身体も大きく、声も大きいのだそうです。そして、このクマゼミのいるところにはあの小さい“ミンミンゼミ”は姿を消すそうで、今年境内でミンミンゼミの小さな抜け殻をあまり見かけなかった気がします。

 親鸞聖人の教行証文類に「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節を知らんや」という曇鸞大師のご文が引かれています。“蟪蛄(けいこ)”というのは“蝉”のことだそうで、蝉は夏に出てきて夏の間に死んでしまうので、春も秋も知らない。春も秋も知らないのだから、蝉は今が夏であることもわかっていない。というようなことです。

 聞くところによると、蝉は卵から生まれて六年間、暗い土の中で硬い殻をかぶって生きているのだそうです。そして長い年月を暗闇の中でモゴモゴとすごした後、やっと夏の明け方に地中から這い出し、羽根を広げ、飛び立ち、ミンミンとなくのです。しかし、その命は短く、ミンミンと元気に鳴くことができるのはたったの七日間だそうです。真夏の七日間をただ鳴いて過ごす蝉は、さぞ暑かろうとも思うのですが、春のさわやかさも、秋の涼しさも知らない蝉は、夏が暑いともわからずただただ鳴き通すのです。暑ければクーラーが欲しいと文句を言い、お経が長いと椅子がなければ座っていられないと愚痴を言い、お念仏は三回で良いのか、六回言わなければならないのか、教えてもらわないとお念仏できませんと比較競争しながら念仏している人間からすれば、暑いも寒いも言わずただ短い命をひたすら、一心に鳴き続ける蝉の鳴きざまを、現代人は見習うべきかもしれません。

 私たち人間の一生は今八十~九十才と、蝉に比べればずいぶん長いようです。それでも、私自身六十を過ぎたにもかかわらず、蝉の七日とは比べようのない人生の短さ、はかなさを感じます。そして、生きることにしか興味がなく、生きる前も生きることが終わった後も問題にしないで、忙しく飛びまわり、死ねばすべてはパーとなくなるとしか考えられない現代人の“生”は、蝉が春も夏も知らず、ただ夏のみに生きるがゆえに夏もわからないのと同じく、本当の“生”が分からないままなのです。念仏信心の中で命は多くの命の縁の中にあり、この命は無量の命の中に帰る命であることを知ることができ、生が生だけでなく、“生死即涅槃”として知ることのできる教えこそが浄土真宗のみ教えなのです。

(文責 住職)