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五月住職法語

読み上げ

還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入

今年もコウノトリが巣塔で卵を抱いています。コウノトリの国内での野外生息数は、放鳥以来十七年間で三百羽を超えたそうです。車を運転していて目の前をコウノトリが横切ったり、晴れた大空を二羽のコウノトリがクルクル輪を描いて飛んでいる美しい姿を見ることのできる贅沢な日常が当たり前になってきました。

殻の中で、暖かく安全に守られて、コウノトリの赤ちゃんはすくすく育ちます。しかし赤ちゃんはふと疑問を持つのだそうです。「こんな小さな世界でぬくぬくと眠り続けていいものだろうか?」と。ちょうど同じころ一生懸命卵を抱いて温め守ってきたコウノトリのお母さんも「いつまでもこんなに甘やかせていていいのだろうか」と疑問を持ちだすのだそうです。そんな時に赤ちゃんが黄色いくちばしで卵の内側から殻をコツンとたたき、同じ時にお母さんが外から卵の殻をカツンとたたくと、卵の殻が割れて、ひながかえるのだそうです。

本当か嘘かは知りませんが、禅語では『啐啄同時』といって「啐(そつ)」とは、卵の中の雛が「もうすぐ生まれるよ」と内側から殻をつつく音。「啄(たく)」とは、そんな卵の変化に気づいた親鳥が、「ここから出てきなさい」と外側から殻をつつく音。殻を破る者と、それを導く者。そんな両者の「啐」と「啄」が、少しもずれることなくピタリと同時に行われるというのが師弟関係の理想であり、『啐啄同時』という禅語の示すところなのだそうです。どちらにしてもその発端は“疑問”を持つことから始まっています。そして、近代社会の進歩と発展も、現状の在り方に疑問をもち、殻を破り、新しい世界に進んでいく繰り返しでした。『大疑ありて大悟あり』とも、禅では言うそうです。

浄土真宗の教えの中でも、“信”と“疑”について、その内容について、その対象について、その扱い方について、様々な角度から考えられています。というか、親鸞聖人の仏道は「唯以信心」と言われるように、“信心”の在り方が最も大切なものです。

現代社会は、ひなが卵から孵化するように、既存の常識や習慣を“疑う”ことから、知性を磨き上げ、科学文化社会を追及してきました。しかし、その方法で進み続けた結果、今まさに地球上の環境破壊、核戦争、経済格差、民族紛争と、究極破綻の事態を目の当たりにしています。正しい知性と新しい技術を生み出すための疑う心が、核分裂の臨界事故のように治まりのつかない危機に面しています。いつまでも離れることのできない疑う心(疑情)が、私たちを虚しい生死輪転の世界にひきとどめてしまっているのです。まずは仏様の教えを信じ、お念仏の道を歩みだすことから始めなければなりません。慌ただしく、不安で、不満で、イライラトゲトゲした、生死輪転の世界から離れ、寂静無為の楽しい世界に入り、お念仏をよろこび、仏の道を歩まれた多くの念仏者の生き方を見習い歩もうとする信心が、必ず私たちを仏と私との別け隔てのない真実の世界に目覚めさせていくのです。

(文責 住職)