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六月住職法語

読み上げ

弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

去る五月二十一日本願寺において「親鸞聖人御誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年慶讃法要」のご満座が迎えられました。三月二十九日に始まり五期三十日間の法要でした。出石組では二日目の三月三十日に団体参拝をさせていただき、私はさらに出石組総代会として五月十日にも参拝させていただきました。ほかにも仏壮として、あるいはお寺としてお参りされた方もあり、ご法要に四回参拝されたというご門徒もおられました。

二〇一一年に親鸞聖人の七五〇回大遠忌法要を勤め、間もない二〇一四年には伝灯報告法要が行われて、浄土真宗本願寺派も新しいご門主のもとで一〇年近く歩んできています。最近の三年間はコロナウイルスの影響で思うように活動することができない中でしたが、こうして慶讃法要のご勝縁にであえたことは本当に有難いことだったと思います。次は「蓮如上人五五〇回遠忌法要」が二十五年後の二〇四八年でしょうか。そのころ私は九〇歳になります。今回の団参でも、永井あさゑさんや岩上加代子さんが九〇歳で元気に参加されていたので、私も親鸞聖人や前住くらい頑張って生きてやろうと思っています。

しかし、これからの二十五年は、ひょっとするとこれまでの二十五年とはけた違いに大変な年月になるのかもしれません。世界の紛争は深まるばかりで、核兵器の使用禁止への希望はG7サミットで消えてしまったようです。“ボタンが押されればすべて終わる”世界破滅の恐怖と危機感が先進国のおごりの中で思考停止してしまっているようです。核による物理的な破壊とおなじくらい、SNSによる日本人の精神の破壊は、今後二十五年を生き抜いていくには厳しいものになっています。監視と管理が進み人を出し抜くための情報伝達スピードは日々向上して、すべての事柄が疑わしい不審な日本社会になってしまいました。

親鸞聖人が御誕生になり生きられた八五〇年前の鎌倉時代も、無秩序で、野蛮で、残酷な血なまぐさい社会でした。だから、どこまでも果てしなく極まりなく濁って悪に満ちた、どうしようもない悲しみの世界を救い、すべての命を浄土の世界に渡していく、無量寿経に説かれる弥陀の本願を弘め、私のところまで届けていただいた七高僧の説かれた念仏の道を喜び歩まれたのです。お念仏は、僧侶だとか俗人だとか、男だとか女だとか、教学者だとか哲学者だとか関係なく、共に心を同じく、命が踏みにじられ、穢され、卑しめられる危険な世界の中で、仏の命と同じ尊い命として喜ぶことのできる唯一の道なのです。

ご門主様は、御影堂の私たちに、親鸞聖人の教えに集う同朋教団でありながら、過去には、多くの人々を差別し、差別を正当化する教えを説き、多くの人々を戦争に向かわせ、他国の人々を殺し卑しめることを正当化してきた教団の体質をまずは深く反省され、これからの念仏教団としての歩む道をお示しになられました。それはうまいスピーチではないにしろ、誰かが書いた原稿を丸読みする心のない総理のスピーチのようではありませんでした。

(文責 住職)