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十月住職法語

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道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

道綽禅師は聖道門の仏道で悟りに至ることは困難であることを証明し、聖道門ではだめで、浄土の教えの道でなければならないと決せられた。“決める”ためにはたくさん学び勉強し、体験して、たくさんたくさん議論して、考えて、硬い確信をもって後のものに大きな影響を与えることを覚悟のうえで決定は下されなければならないものだと思います。決めた道をまっすぐに進むことは実に難しい。しかし、ただ念仏して浄土に往生する道をぶれずにあゆむのが私たち念仏者です。その決心は自分の勝手な思い込みや、いこじな利己的競争心ではなく、他力回向の信心であればこそできるのです。親鸞聖人は『教行証文類』の最後にあたり、この道綽禅師の『安楽集』の「前(さき)に生まれむ者は後(のち)を導き、後(のち)に生まれむ者は前(さき)を訪(とぶら)え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなりと」の言葉を引用されています。親鸞聖人自身は法然上人を訪い、七高僧を訪い、お釈迦様を訪い、阿弥陀様を訪ってこの教行証文類を書き上げ、私たち後のものが途切れることなく念仏成仏の道に連続してつながっていくことを願われたのだと思います。

先日、久しぶりに、信楽先生のそばでずっと念仏の教えを学び続けられた先輩の毛利悠先生が講師をつとめられる勉強会に、リモートで参加させていただきました。後日、先生から新しく書かれた本『死者を訪う(とぶらう)ということ ―この平和を続けるために―』を送ってきていただきました。

そのなかで、–「前に生まれむ者」というのは、個人的には、身近に接し、先だった祖父母や両親、先生や友人、隣人のことでしょう。また社会的には、すべての歴史を作ってきた人々、先輩の人類を言っていることは明らかです。「後に生まれむ者」は、個人的には、私、社会的には“今”存在しているすべての人間のことでしょう。その「後」は、「前」を「訪(とぶらえ)」というのです。・・・「訪」には、「問う」「相談する」という意味がある。「後に生まれむ者」は、先輩、先祖を「とぶらう」、「問う」「相談」して生きろということです。–と説明され、いま私たちが訪うことで気づかなければならないことは、自然災害は、防ぐことが難しい場合もある。しかし、戦争は人間が起こすものである以上、人間が止めることできるはずである。アメリカ・イギリスという一方の側について、発言、行動することは日本国民のためにならないことはもちろん、世界平和の道に反することは明らかである。その道を誤らないためにも、過去の戦争を反省・総括し、今の世界の危機的状況に対して「個人の資質などに落とし込む犯罪探しではなく、国家や社会の仕組みとして検証する必要がある」ことを示していただいています。

おりしも昨日日本では「国葬」が決行されました。このような勝手で依怙地な決断で物事をすすめず、多くの死者をしっかりと“訪う”ことによって、今の私たちの発言・行動を考え、「後に生まれむ者」に連続無窮にして、念仏が相続できるよう、戦争を何としても防ぎ、何より核兵器が使用されないよう決断していかなければなりません。

(文責 住職)