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七月住職法語

読み上げ

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

親鸞聖人は小さい頃のお名前が“松若丸”だったのだそうです。お父さんがつけた名前なのか、お母さんがつけた名前なのか、かわいい男の子のような響きがします。ちなみに私は父が匡(タダス)と名前を付けたのですが、小さい頃からずっと“コボン”と呼ばれており、あまり自分の名前に馴染みがありません。それはさておき、親鸞聖人のお父さまの名は藤原有範、お母さまの名を吉光御前といわれたのですが、お父様は四つの時に、そして八つの時にはお母様を亡くしておられます。そんなこともあって、九歳の時におじさんに連れられて、青蓮院という寺で出家得度されました。青蓮院は、比叡山で最高の地位である座主にまでなった慈鎮和尚の寺です。「わずか九歳で、出家を志すとは尊いこと。《明日》、得度の式を挙げよう」と言われた慈鎮和尚に、“松若丸”は筆を執られ、一首の歌を示されました。

明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは
この歌の心に打たれ、慈鎮和尚はすでに暗くなっていたその日のうちに“松若丸”を得度させその名を“範宴”と改めさせたのだそうです。ちなみに浄土真宗では今でも、得度の式を本堂の明かりを消して暗い中で行うのはこの時の名残なのだそうです。私も大学二回生の時に薄暗い西本願寺の本堂で得度し、その名を“匡紹(キョウショウ)”と改めました。それはさておき、親鸞聖人はその後、比叡山で仏道修行を励まれたのですが、生死いずべき道を求め二十九歳の時に山を下り、法然上人のもとに向かわれました。その時に使われていた名前が“綽空”です。七高僧の第四祖である道綽の“綽”と、第七祖の源空(法然上人)の“空”をとってる気がします。そこで法然上人を通してお念仏に出会われ、先生と一緒にお念仏できた日々は本当に楽しい日々だったのだろうと思われますが、承元の法難にあい、三十二歳の時に流罪となり、法然上人や、仲間のみんなと生き別れになってしまいます。その時にはすでに“親鸞”という名前を使っておられたようです。こんどは七高僧の第二祖である天親菩薩の“親”と第三祖の曇鸞大師の“鸞”をとって“親鸞”です。私も名前を“楽光”と変えてみたいと思いましたが、今の日本の法律では改名はそう簡単な事ではないようなので、あきらめて“匡紹”を今も名乗っています。それはさておき、親鸞聖人にとって今回のお正信偈に出てくる本師曇鸞(曇鸞大師)は自らの名の一部として、自分自身の有り様を示す大きな存在だったのです。

善導大師の言葉に「前念命終後念即生」とあります。私たちは誰でも、父と母から生まれ、かわいい名前を付けてもらって育ちます。自分の親を選び、顔を選び名前を選んで生まれてきた者はいない。その受動的な命が弥陀の本願に出会うことで一旦終り、念仏信心の中で自分の顔と名前に責任を持った人として、生まれ変わって生きるのが「前念命終後念即生」ということです。親鸞聖人も、名前を親鸞とした時から既に浄土の命となり、九十歳まで力強く生きられました。私もあと何年この娑婆にいるのかわかりませんが、改名は難しいとしても、既に浄土の命を恵まれたものとして、お念仏の中に力強く生きていきたいと思います。(文責 住職)