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住職法語 2026-09

解脱の光輪きはもなし 光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ

九月二五日に信楽先生の十三回忌法要が広島であり、出席させていただきます。先生には龍谷大学二回生の時、大宮学舎の図書館にある研究室を訪ねて行き、初めて出会わせていただきました。それ以来なにやかにや公私共にお世話になり、お亡くなりになる十日前に最後出遇わせていただき、声をかけていただくまで、教え導いていただきました。

私たち浄土真宗の教えを学び、念仏の道を生きていこうとする者にとって「浄土」の“存在”について、どのように考えるのか、どう受け止めるのか、大きな問題だと思います。お浄土はどんなところなのか?本堂にお参りし、阿弥陀経を読んでいると、極楽浄土は光・音・香り・色彩が満ちあふれる“完全な安らぎの世界”として見えてきます。そして七宝でできた池、無数の蓮華、自然に流れる音楽、柔らかな風、鳥のさえずり、すべてが苦しみを離れ、心が自然に仏道へ向かうように整えられていきます。しかし、近代の人間を中心にした新しい思考方法を身につけて生きている私たち現代人にとって、西方にそのような浄土があって、死後にそこに行き生まれるというような発想は、もう批判の余地もなく承認しがたいものになっています。

信楽先生はいま・ここにある社会の現実を踏まえた現代真宗教学を示し、私たち後に続くものにも、いろいろな形で時代に即した念仏の伝道を心掛けるよう指示されました。「浄土」に関しても“象徴”という考え方を導入して、私たちが現代人に説明していけるように指導していただきました。

そんな中でも私の中で“お浄土はあるのかないのか”の問いが湧いたり消えたりすることがあります。父や母、先に死んでいく人が多くなってきたこの頃、あの人はいまどこでどうしてるのだろうと思うこともよくあります。 信楽先生と共に大学時代から真宗カウンセリング研究会や仏教福祉ついての学習でお世話になった西光義敞先生が二〇〇四年にお亡くなりになった葬儀の時に、信楽先生がお棺に横たわる西光先生に“お浄土でまた会おう”とささやかれたのは印象的でした。それと同じように先生の亡くなる前、虫の息で“お浄土でまた会おう”と声をかけていただいた先生の浄土観を私は有難く受け取らせていただいています。

先生も浄土について“あるのかないのか”“死んでから行くところなのか”を、どう説明していくのか、いろいろ工夫されていたように思います。三年前に先にお亡くなりになった奥様のお通夜でのご挨拶で、私たちに教えられたのが今月のご和讃「解脱の光輪きはもなし 光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ」でした。お念仏に出遇い、阿弥陀様の光に照らされて生きる命は、有るとか無いとか計らう凡夫の見方を超えて、無量のいのちの中にともに在ることにめざめて生きさせていただくのです。

それにしても「浄土」を語ることは、真宗学の中でも最も危険で難しいことのようです。

(文責 住職)