ホーム » 住職法語 » 四月住職法語

四月住職法語

読み上げ

清浄歓喜智慧光  不断難思無称光
超日月光照塵刹  一切群生蒙光照

一月は行く、二月は逃げる、三月は去る。毎年わかっているようでも、四月を迎えるときにはいつも時の速さを思います。今年の冬は年末にまとまった積雪があっただけで、おおむね暖冬だったせいか、桜の開花も早まり、お城山の桜はもう満開を過ぎて散り始めています。夜桜見物はまだ寒くてコートがいりますが、春の陽光はコロナで沈んだ気分を緩めてくれます。この春の穏やかな日の光は清らかで、その陽に温んだ雪解け水は、浄い小川の流れとなっています。草も、花も、虫も、特に小鳥たちは大いに歓びさえずり、自然とともに感じるこの喜びが、智慧の光なのだと感じられます。

親鸞聖人はこのようなご和讃も歌われています。
罪障功徳の体となる 
こほり(氷)とみず(水)のごとくにて
こほり(氷)おほきにみず(水)おほき
さはり(障り)おほきに徳おほし
聖人は吉水の法然上人の元で、お念仏に出遇われておよそ六年の歳月が流れた承元元(1207)年、「承元の法難」と呼ばれる大事件が起こり、越後の国に流罪となられました。越後は但馬よりも豪雪地帯で、今年もかなりの大雪だったようです。現代のようにエアコンもストーブもない昔、京都でしか生活したことのない都会人の親鸞さまが、雪深い越後の田舎で生活するのは、かなり厳しい体験だったのだと思います。とはいえ、越後の地にも春は来る。雪に埋もれ、氷に閉ざされた生活に春のひかりが注ぎ、氷が溶けだし、雪が消えて花の咲く季節の喜びは、雪深き田舎に暮らす者にしか味わえないものです。こうした体験を通して、このご和讃は詠われたのではないかと思います。

 私たちは今、煩悩の大雪に埋もれ、三毒の氷に心が凍てつき閉ざされています。三毒とは貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)。貪とは、むさぼることで際限なくあれこれ欲すること。瞋とは、不快なものに対して激しく怒ったり、妬んだり、恨んだりすること。痴とは、無知であること。今世界は三毒の豪雪に埋もれた真冬にあるかのようです。人の欲が北極の氷を溶かし、憎み争う核の熱が一瞬にして全人類の命を奪おうとしています。

今日のような穏やかな春の日を過ごしていると、すでに極楽に暮らしているように感じられることもあります。しかし、すぐまた暑い夏に悩み、寂しい秋に沈み、また厳しい冬に閉ざされることを繰り返します。親鸞聖人がご誕生になって八五〇年、私たちは同じ季節を繰り返し、同じ争いを繰り返し、同じ苦しみを繰り返しています。この繰り返しの闇は人の創り出した光では決して破れない。月の光や太陽の光も、この娑婆の光であり限界があります。その限界を超えて一切のものを照らす光のあることが「一切群生蒙光照」とうたわれています。新型コロナウイルスのワクチンが一切の人のために打たれ世界を救うのか、相変わらず格差の中で争いを繰り返すのか、阿弥陀さまに見つめられているように思います。   
   (文責 住職)